空と海の間に

 当時の映画のパンフレットのコピーのコピーを手に入れました。8月9日、10日の両日、大阪国際交流センターでの50周年記念行事で上映される内容です。 小山保昭/JA3ATR
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 監督クリスチャン・ジャック サンタクローズの殺人 幻想交響楽 ボルジュア家の毒薬
 脚色はアンリ・ジョルジュ・クルウゾオ 恐怖の報酬、悪魔のような女・・・
 

も…の…が…た…り

 全世界には、二十万からの熱心なアマチュア無線技士がいて短波で海と陸を越えて通信している。短波は気紛れで、ときに、邊か遠隔の地で受信されることがある。かくて、日夜耳を傾けている彼らに、時として、悲報が伝えられることもある。
 ノルウェイの沿岸から最短二日の北氷洋上に1艘の漁船が出漁していた。フランス、ブルターニュ半島の漁港コンカルノオのトロール船「リュテス」号である。ル・ゲレックという中年の船長をはじめとして、乗組員は12名の漁夫、いずれも話題にのぽったこともない平凡な人々であった。

 ところが、この船の漁夫の一人が突然、奇妙な病気になった。引続いて、また一人が倒れた。もちろん、船には医者などいようはずはなかった。早速、船長は無線で各地に呼びかけ、病因とその手当法を知ろうとしたが、どこからも応答はなかった。無線機が故障していたのである。そのうちに、パタパタと漁夫たちは倒れて、今では、船長と二等運転士のジョズとアラビヤ人のモハメッドを除いて、他の者はみんな息も絶え絶えにベッドに横たわるという始末だった。

 船に悪魔がとりついたのだ−−。ジョズは、それを船で唯一の異邦人モハメッドのせいにした。ところが、船長はアマチュァの技士で船内にもその機械を据えていた。その短波で呼ぴかけてみれば、どこかしらのアマチュアが応答してくれるかもしれない。それだけが、今では船の人々を救う唯一のチャンスとなった。リュテス号から何千キロも雑れたアフリカのトゴの土人部落で、「パリ物産館」を経営している白人アルベルトがそれを受信したのである。彼は早速、小学校の教師に頼んで、本式のアンテナを立てるとともに、駐在官の世話でジャングルを回診していたジェグウ軍医を呼んで来て、危機に瀕したリユテス号と連絡を取った。

 軍医と船長のアマチュア無線機による問答で、病気はハムの中毒だと分った。リュテス号では、ただ一人のアラビア人モハメッドを除いて、全員がそのハムを食べていたのである。回教徒のモハメッドがそれを食べなかったのを目の敵にしていた二等運転士のジョズは、あくまでモハメソドを厄病神として、殴りつけたりした。今は夜の7時40分である。翌朝の8時までに注射をしなければ全員は助からない。あと12時問しかない。しかも、ハム中毒の血清はパリのパスツール研究所だけにしかない。

 軍医は船を現在位置に停止しておくように命じて、早速無線でパリを呼び出した。これを受けたのがアマチュア無線の大ファンで、18になるジャン・ルイだった。彼はアフリカの軍医の指示に従って、早速、クリシイ街に住む軍医の先輩ラルゴー医師の宅へ飛ばした。だが、憂いに沈むクリスチーヌ夫人を残して、一週間前にラルゴー医師は他界していた。自分の歎きだけで一杯だったクリスチーヌは、他人を救うどころではないと、はじめ、それをはねつけたが、シャン・ルイの熱心さにほだされて、遂に、彼と共にパスツール研究所に赴き、血清を手に入れた。

 二人はすぐその足でオルリー飛行場へかけつけた、だが、冷酷な規則はおいそれと血清を運んではくれなかった。そのうちに、もう北方へ飛ぷ飛行機はなくなった。そして、ル・ブールジェ飛行場からは、まだミユンヘン行きの飛行機があると知らされた。ジャン・ルイはわが家に飛んで帰って、ミュンヘンを呼ぴ出した。ミュンヘンにもアマチュア無線のファンはいた。戦争で盲目となったカルルと呼ばれる中老の男が受信したのである。だが、一方で、クリスチーヌがル・ブールジェ飛行場に駈けつけたときは、ミユンヘン行きは既に出発していた。だが血清はべルリンへ飛ぶポーランド機のスチュワーデスに託することが出来た。ミュンヘンのカルルは、杖を頼よりに飛行場へ行ってみたが、パリから来た飛行機には血清は積んでいなかった。クリスチーヌからその事を聞き知ったジャン・ルイが再びミュンヘンを呼び出した頃は、もう夜半の二時を過ぎていた。

 盲人のカルルはアメリカ病院に勤めている娘の手をかりて、ベルリンのアメリカ空軍に、電話で事情を話した。米空軍のミッチ軍曹は、ソ連地区へ深夜侵入して、ポーランド機のスチュワーテスから血清を受取るには受け取ったが、その帰路ソ連の歩哨に捕われてしまった。ミッチがソ連の大尉に熱心に説いたかいあって、大尉も了解した。だが、血清は返してくれなかった。飛行機はソ連にだってありますぞ。かくて血清はソ連機でコペンハーゲンまで送られ、コペンハーゲンからはフランス機でオスロまで飛んだ。オスロからはノールウェイ機が現場まで飛ぶことになった。その旨が、ペルリンからミュンヘンヘ、ミュンヘンからパリヘ、パリからアフリカヘ、そこから、リュテス号へとリレーして伝えられたが、その頃、船では、もう船長まで中毒に犯されて、倒れていた。

 最後まで残った二等運転士のジョズが船を動かした。商船の航路まで出たら助かる見込が強いからとの独断からであった。気息奄々としていた船長に、最後の一本のカンフル注射をしたとき、僅かに元気ずいた船長が船を停めろと命じた。北氷洋の海上に世界と全く隔絶されたリュテス号は、刻々と迫る死を眼前にする人々を乗せたまま漂っていた。このころになって、はじめて、各無線局が動き出した。英国でも、フランスでも、ほかの電波を制限して、リユテス号の捜査に全力をつくしはじめた。ノルウェイ機が血清を積んで飛び立った。最後まで元気なジョズがおぼつかない手つきで無線機を操作した。そして遂にノールウェイ機と連絡がとれた。雲が低かった。視界はきかなかった。ノルウェイ機は、百米の低空にまで突込んで、船の上空をかすめ飛んだ。血清は投下され、船から少し離れた海中に落ちた。その時、勇躍、身も凍る海中に飛び込んだのは、一人だけハムを食わなかった回教徒のモハメッドだった。人々の連帯責任は無益ではなかった。

 一週間後、コンカルノオは全港をあげて、リュテス号の帰りを歓迎していた。ラジオがその状況を世界に放送している。アフリカでも、ミュンヘンでも、ベルリンでも、十二名の漁夫を救った人々が、感激に胸おどらせて、それを聞いている。ただ一夜のうちに、この善意の鎖を結ぶために、手を握り合った世界の人々に感謝を捧げます。とアナウンサーは叫んでいた。